ヨーロッパにおける武田流中村派

ヨーロッパにおける武田流中村派の歴史には多くの出来事があります。すべてはある一人の女性と共に始まりました。

 モニカ・ヴェルハーン・メース先生は1980年6月9日に家族の事情で日本へやって来ました。そこで、彼女は彼女の4人の子供たちに何かスポーツをする機会を探していました。
電話帳をめくったものの、まだ日本語がわからなかったため探すことは困難でした。そこで、知り合いにとにかく何でもよいからと頼んでみました。すると、「ああ、この近くに何かあるので、行って覗いて見てはどうですか。
」と言うので、4人の子供を連れて(背中に一人背負って、二人の子と手をつないで、もう一人はその隣に)行ってみました。しかし、その場所を突き止めるのは難しく(今日の東京においてもそうです。)、やっとの思いで狭い道に武田流中村派の道場を見つけたのです。

大きな鉄の門をノックしてみましたが、何の応答もありませんでした。しばらくのあいだノックを繰り返し、「すみません。」と叫んだところ、やっと少 しだけ天窓が開きました。彼女が私に言ったことですが、見張りの人は子供を4人連れた西洋の女性が扉の前に立っているのを見て唖然としたそうです。そし て、天窓から覗き込んだだけで、黙り込んでしまったそうです。
彼女はそのあともう一度扉ノックをしてみたところ、ようやく扉が開きました。そこに は女性が立っていました。日本語がわからないので何とか身振り手振で、子供を通わせたいことや子供のための稽古があるのかということや、月謝はいくらする のか、何歳から入れるのかなどを聞くことができました。道場の先生は少し英語が話せました。そして、翌日には子供の稽古があるので来るように言われまし た。

翌日彼女はすばやく扉を開け、 そこに立って待っていました。そこは少しばかり小汚い稽古場でした。彼女の前には豊島先生が彼のよく知られたほほえみをしながら立っていました。そして、 「あなたが稽古に参加したいんですよね。」とおっしゃいました。彼女は「え?わたし?わたしではなくて、子供に参加させたいのですが。」と言いました。 

そのようにして、毎日彼女は子供を道場に連れて来ました。初めは彼女自身あまり乗り気ではありませんでしたが、彼女も子供たちと同様に試しに稽古に参加することになりました。そして、1983年より彼女は本部道場で豊島師範に師事しました。

  その後数年の間厳しい稽古や試験や試合が続きました。そして、彼女は武田流中村派800年の歴史の中で始めてのヨーロッパ出身の女性となりました。 その 時すでに彼女は日本の道場でも重要な存在となっていました。1984年と1985年に日本に住む外国人たちに武田流中村派を紹介しました。

こ れは「ふるさと」と呼ばれる大変すばらしい屋敷で行われました。そして、彼女と道場とは切っても切れない関係になっていました。1987年彼女は道場の歴 史において、ヨーロッパ出身の女性としてはじめて中村宗家より初段免許を授かりました。しかし、同じ年に突然ヨーロッパへ帰ってしまいました。何を思った のでしょうか。もう武道への気持ちは薄れてしまったのでしょうか。そうではなく、武田流中村派をヨーロッパに広めるためでした。そこで、中村宗家は彼女を ヨーロッパにおける武田流中村派の最初の女性の代表、また最初の先生に任命しました。 彼女はこの大きな任務を背負ってヨーロッパへと帰りました。正確に はルクセンブルグのブリーデルという街です。そこの小さな体育館で教えはじめました。

1987年 の夏の暮れ、彼女はヨーロッパで始めての武田流中村派のプレゼンテーションをオーストリア・ケルンテン州のクラーゲンフルトで開きました。そうこうするう ちに、さらに2人の子供が生まれました。しかしながら、彼女は定期的に教え続けました。 結局、彼女の努力のおかげでヨーロッパでの最初の道場や宗家によ るセミナーを開くことができました。

1987年の末に日本の道場のすべての先生たちをヨーロッパのセミナーへ招待しました。当時武田流中 村派はヨーロッパではまだほとんど知られていませんでしたが、数名のヨーロッパの「先生」も興味を示し、ぜひ中村宗家と個人的に知り合いになりたいと思っ てやって来ました。 礼儀正しさや親切さといった武道の心構えのごとく、彼女は上品に、また控えめに彼女の家、道場、時間、お金をヨーロッパにおける武田 流中村派の発展のために提供しました。

1988年彼女は日本で6週間の合宿に参加しました。そして、彼女の夫と共に最初のプライベートな道場をすばらしい場所に建てました。

1988 年11月彼女は中村宗家と他の先生たちを新しく開いた道場に招待しました。こうして、彼女の多大な努力によって、まだ当時ヨーロッパにおいて小さな植物の ようなものだった武田流中村派はしっかりとしたものになりました。彼女のしたことは人間的に、また、寛大さと誠実さという面で手本となることであり、彼女 はヨーロッパの武道の歴史において、なくてはならない存在になりました。

しかしその後、彼女は健康的な理由から第一線から退かなくてはなりませんでした。そして、誰かに彼女のあとを託さねばなりませんでした。しかしながら、それは、ヨーロッパでは簡単なことではありませんでした。それには力や名声が重要だったからです。
15年以上が過ぎた今日に至っても、中村宗家が長を務める日本祖武道連合会、武田流中村派を代表するものはヨーロッパにはありません。
中村宗家はヨーロッパにおいて、彼の教えを教授するためにはどのような工夫をすればよいかを常に考えておられます。
そ の中には昇段試験のときに送られる栄冠などがあります。私が私の寄稿「師匠と先生」の中で述べたように、今日の日本人にとって、師匠になるにはより厳し く、規律を重んじ、完璧に稽古し修行しなければならないとみなされています。なぜなら師匠とは生徒からは完璧な存在である必要があるからです。そして、段 位制度は彼らのモティベーションを高めるとともに、自らの面目を失わずにすむわけです。もちろんこの昇段試験は日本ではより厳しいものになっています。
し かし、これは誤解でした。それまでには、当時のヨーロッパの代表者の中で誰一人として日本国内の試合に参加した者もいなければ、日本の本部道場で昇段試験 を受けた者もいません。中村宗家がそのあと10年ほどの間感じていらっしゃったことがあります。それはヨーロッパにおける代表のレベルがあまり良くなって いないということでした。
それゆえこのようなアイデアを持って援助されました。しかし、この誤解の意味がわかると、援助することをやめてしまいました。そのあとすぐに当時の代表者たちは辞めてしまい、中村宗家の元から去っていき、独自の道場を開きました。
日 本の本部で試合をしたり、昇段試験を受けてないにも関わらず。近頃になって彼らは自分自身のことを宗家と呼ぶようになっていますが、これは本当におかしな 話であると同時に、悲しいことです。彼らが中村宗家の元を離れてからも、まだその免許や段を使用しているということは興味深いことでもあります。 

3 年前に私はヨーロッパを離れました。それは間違った理解をして間違った教えを教授していたからです。私は最初に道場を開き、そのあと中村宗家を訪れたので す。最初に私がすべきことは、いなかるヨーロッパの生活様式を捨てて、日本の道場のやり方に則ってもう一度勉強しなおすことでした。その結果、正真正銘の 武田流中村派がヨーロッパで教えられ、試されることが可能になりました。中村宗家と取り決めたことがあります。
それは武田流中村派を代表するBudo Institutのメンバーたちが日本で試合に参加し、日本の師匠の前で昇段試験を受けるということです。また、ヨーロッパで行われるセミナーでは師匠を招待して行われます。 

ところで、Budo Institutの畳はモニカ・ヴェルハーン・メース先生からブリーデルにあった最初の道場のものを譲っていただいたものです。もし、あなたがBudo Institutに稽古に訪れた時は、その歴史が刻まれた床に足を踏み入れることになるのです。